タンス町通りについて

タンス町通りの歴史

武生の地は、長く文化・経済の中心地でした。江戸末期ごろ、お金持ちの檀那衆の家に出入りしていた指物職人が暮らす通りがありました。
初代・三崎半三郎も、旧北国街道沿いの卍が辻近くに居住していましたが、200m程北に移転し、現在の場所に引っ越しました。明治8年「越前国武生市街地分間図」には、三崎屋半三郎の名前で記載されていて、当店の他に2店のタンス屋(その2軒は現在は廃業)が載っています。
その後、腕の良い職人が他から移住したり、暖簾分けで通り沿いに店を構えたり、徐々に増え、昭和中頃の最盛期には15~6店のタンス屋が軒を連ねるようになりました。いつしか、この通りを全国的にも珍しい「タンス町通り」と呼ぶようになりました。

「武生のタンスは2割は高い」と言われながら、秋には収穫した米の代金を持って、婚礼のタンスを予約に来た人で賑わいました。「武生から嫁を貰っても、武生には嫁に出すな」と言われるほど、婚礼にかけるお金も大きい土地柄でしたが、一生のこと、少しでも良いものを持たせてやりたいという親心が大きかったからでしょう。現在では、タンス製造の機械化に伴う騒音などの理由で、多くが郊外の工業団地に移転し、営業店舗数は減りましたが、面影を残した建物も多く残っています。
当店は、庇に厚い木の板を瓦の代わりに噴いていますが、これは、柔らかい桐の木材を2階へ木材を運び入れたり、干したりするときに傷をつけないように配慮がされたためです。この特徴を残した三崎タンス店は「府中まちなか博物館」や「ふくいの伝統的民家」に指定されています。